NPO法人福岡終活・相続支援センターみらいあん 広報【三戸浩司】


 〜 弱きを助け、強きを挫く 〜

「警察官になりたい」

これが、僕の人生最初の夢でした。

幼い僕にとって「弱きを助け、強きをくじく」象徴的な存在が警察官だったんですね。その夢は大人になるにつれて「弱きを助け」という部分に重点が置かれることになっていきます。高校生となったころには、ボランティアサークルに所属して、街頭での募金活動や地域の清掃活動、障がい者高齢者支援の活動に参加して、支援を必要とする方々との交流を重ねていきました。ボランティアというと、アフリカ地域の困窮や難民問題にはじまり、日本に住む僕からすればどこか遠い問題のように思っていました。しかし、ボランティア活動をしてはじめて、自分の住む地域にも、貧困やDV、虐待などの悩みや苦労を抱えている人が多くいることに気付いたんです。この頃から「誰かの役に立ちたい」という思いが一層強まったように感じますね。

将来を考える年齢になったとき、僕の中に2つの選択肢が浮かびました。「福祉」か「司法」。「弱きを助け」「誰かの役に立つ」という両方が実現できる分野です。大学や学部選択はその先の就職に直結することもあり、ずいぶんと悩みましたね。悩み抜いた結果、僕は「司法」の道を進むことにしたんです。幼い頃に抱いた警察官という夢はいつしか「弁護士」という形へと変化していったんですね。

 〜 挑戦と挫折 〜

弁護士への道を突き進むべく、大学時代は六法全書を抱えながら必死で法律を学びました。3年生からは大学とは別に専門学校にも入学し、Wスクールで司法試験合格を目指しました。しかし、在学中の合格には至らず、卒業後も大学に残って司法試験の勉強を続けていきました。両親への説得を繰り返し「あと1年、あと1年」と合格への糸を手繰り寄せていきましたが、その門は最後まで開かれることはありませんでした。気がつけば27歳を迎えていました。

経済的にも精神的にも限界を迎えており、司法への道は断念せざるを得ませんでした。落胆する日々を送りながらも、いつまでも何もしないというわけにはいきません。早速就職活動をはじめたものの、社会人経験ゼロの27歳にすんなり職が決まるほど、世間は甘くありませんでしたね。求人に対して何百と応募しましたが、多くは面接の機会も与えられませんでした。覚悟はしていたものの、精神的にもきつかったことを覚えています。

 〜 相互扶助の精神 〜

そんなとき、就職先に苦慮している僕のことを見かねた父が、知り合いの損害保険調査会社に話をしてくれて、面接を受けることができるように取り計らってくれたんです。なんとか無事に採用いただき、保険業界でのキャリアがスタートすることになります。調査会社の調査員としての業務は、交通事故の現場に入り、道路のブレーキ痕や事故車の状態など、現場にある情報をできるだけ多く取得し、事故がどのように起こり、原因は何なのかを客観的なデータでまとめることでした。社会人としての未熟さから、入社したての頃はお客様からクレームをいただくこともありましたが、自分の関与した事故で保険会社から保険が下り、お客様から感謝されることもあって、次第にやりがいを感じながら業務にあたることができていましたね。しかし、調査会社という仕事は、あくまで損害保険会社から調査委託をされるという立場であったため、次第にお客様のそばで仕事がしたいと思うようになっていきました。

調査会社に3年勤めた後、本格的に保険の仕事をするために、営業経験はゼロでしたが、生命保険会社の営業職へと駒を進めていきました。厳しい環境下ではありましたけど、お客様との距離が近い分、よりやりがいを感じられる仕事だと実感していました。

「三戸さんが良い保険を紹介してくれたから、入院したときも助かったよ」
「私のことを誰よりも気にかけてくれる三戸さんだから信頼できるよ」

など、厳しい日々の中お客様から頂く、温かい言葉は、保険業を続けていく上で大きな励みになっていましたね。

いつしか、保険業が僕の天職になっていました。警察官、弁護士、保険と一見関連性の無い目標に映るかもしれませんが、僕の中には常に「誰かの役にたちたい」という強い思いがあって、それが人生の経験とともに形を変え、保険という仕事に導いてくれたのかもしれません。そして、2017年、生命保険の代理店として独立することを果たします。


独立を果たして3年が経過した2020年、少しずつ追い風が吹いてきたという矢先に、コロナウイルスが蔓延しはじめます。対面営業が基本であった僕の仕事も、当然大きな打撃を受けました。営業活動が停止した状態では、徐々に経済的にも厳しい状態になっていくことが目に見えており、生活していくためには他の仕事を探す必要がありました。そして、仕事を求め向かったハローワークで、NPO法人みらいあんと出会うことになります。

当時のみらいあんは、梅﨑理事長が一人で運営しており、団体拡大のために事務局を設置して将来的なビジョンを具体化するための実働部隊を編成する最中でした。そんな中、僕がみらいあんの門を叩いたんですね。面接の結果、採用となり、事務局長としてみらいあんの活動を実務面で引っ張っていくことになります。

保険業もコロナの影響でストップしていましたが、みらいあんとして長年行ってきた「終活セミナー」や「ぶらウォーク福岡」といった対面イベントも全て停止している状態でした。梅﨑理事長の「今やれることを精一杯やろう‼」という言葉を胸に、県庁や市役所に足繁く通って、何かヒントになることはないか…模索する日々でした。

そんなときに、住宅都市局の担当者から「コロナウイルス蔓延で失職されて、住まいに問題を抱える方々も増えるかもしれません。みらいあんさんも居住支援団体としてご協力お願いします。今後も積極的に情報交換、共有していきましょう」と声をかけられたんですよ。みらいあんは、終活や相続の啓蒙活動に重きを置いていましたが、様々な事情で住む場所が無いという人たち向けに、住む場所を支援するという「居住支援団体」という側面も持っています。今やれること…それは、住む場所に困窮する人々を救うことだとピンときたんです。その後は、行政との綿密な情報共有や住宅の確保、食料の手配などを行い、住む場所がないという方々を多く受け入れてきました。


みらいあんを支える一員として、僕のやるべきことは一つです。それは、NPO法人みらいあんという団体を広く知ってもらうための活動です。僕は宅建資格を持っているわけでも、福祉関連事業の経歴があるわけでもありません。大学時代に学んだ法律、生保時代に培ったコミュニケーションスキルを駆使して、一般の方々に団体の活動を知ってもらうと同時に、みらいあんの理念に共感いただける会員様を増やしていくことが僕の使命だと感じています。

団体の周知のために、様々な場所に出向いて、みらいあんの活動を発信し、賛同いただける方々を募っていきます。「誰かの役に立ちたい」という思いを胸に、今後も団体発展に力を尽くしていく覚悟ですよ。