アロンジ合同会社【近藤貴盛】


 〜 母との別れ 〜

2021年。僕が44歳のとき最愛の母は悪性リンパ腫によってこの世を去りました。大切な人を失う悲しみはいくつになっても耐え難く、心に深い傷をのこします。

大学では学者を目指して文学部へとすすみ、その後も東大大学院・パリ第7大学でフランス文学や芸術などの研究を専門的におこなってきました。一方で大学院では専門領域にとらわれないリベラルアーツ教育に触れ、多角的な視点や思考力を培っていきました。

大学から大学院、留学と僕が研究に没頭できる環境にいられたのは、間違いなく母の支えがあったからです。経済的な支援はもちろんですが、母の優しい言葉や明るい性格、そして常に応援し続けてくれた姿勢は、僕の心を何よりも強く支えてくれていました。

母という存在は単に「大切」という言葉だけで表現できるものではありません。そんな何よりも大きな存在であった母を僕は失ってしまったんです。

 〜 託されたバトン 〜

福岡最大の歓楽街、中洲。通りぞいに広がる色鮮やかなネオン、華やかなドレスをまとった女性たち、ビルの壁面に反射するパトカーの赤色灯。光と影が混在するこの街に、母の店はあります。『スナックyou&yu』

嬉しいことがあった日も、辛いことがあった日も、母は何十年も笑顔で店に立ち続けました。僕と弟を育てるために…。その笑顔の裏でどれほどの苦労を抱えていたのか…今となっては想像することしかできません。

母の存在があったからこそ、僕はここまでやってこれました。しかし、僕はまだ母に何も返せていない…親孝行も、感謝の言葉も。そんなときに知らされた、母のがん宣告でした。母はその知らせにも負けず、懸命に戦いつづけました。もう一度自分の店に立ちお客さんと談笑し、いつもと変わらない日々を取り戻すために。しかし、その願いは叶うことはありませんでした。

「お店を守ってほしい」

病床で託された母からの言葉は、僕にとって救いだったのかもしれません。母に何も返せなかった人生において、神様がくれた最後のチャンスだったように感じます。

「うん。あとは心配しないでいいから」僕の言葉に、母はすこし安心した表情を浮かべ、穏やかに微笑んだ姿を今でも鮮明に覚えています。

 〜 無意識における必然の選択 〜

母から託されたバトン。店を守り抜くことが母への恩返しになるという強い思いがありました。しかし、スナックの経営…僕には水商売の経験も飲食店の経験もありません。なんせ、僕は34歳までは学生だったんですから…。

大学時代はプロの家庭教師や塾講師として教育分野での経験を積み、34歳からはITコンサルタントとして基幹システムのリプレイスやアプリ開発に従事してきました。その後独立行政法人で国家予算の執行管理にたずさわってきましたが、いづれもスナック経営とはかけはなれた分野です。

しかし、様々な分野での経験は無駄ではありませんでした。店舗運営において大いに役に立つものばかりだったんです。たとえば、教育分野での経験はスタッフやキャストへの指導という部分で大きな成果を挙げましたし、IT分野での経験は店舗のマーケティングという意味において力を発揮しました。人生において無駄なことなど何も無いことを改めて感じた時期でもありましたね。

 〜 故郷への恩返し 〜

中洲の街は母の思い出が詰まった大切な場所であると同時に、僕にとっても幼少期を過ごした大切な故郷です。母が中洲のスナックで働きはじめたのは僕が小学生のころでした。幼かった僕は母の店を訪ねては、お店のお姉さんたちからお菓子をもらったりおしゃべりをしたり…たくさんの楽しかった思い出があふれています。

『中洲の街にも恩返しがしたい―』

故郷への恩返し、そんな思いでしょうか。母から店を継いで間もなく、中洲で働く女性たち向けに「キャリア支援」をスタートします。スナック運営をしていると、女性たちの様々な声が聞こえてきます。そんなときに、中洲の女性たちの多くが夜の仕事を卒業し、昼の仕事へうつりたいと願っていることを知ります。しかし、彼女たちはそうは思っていても昼職への具体的なステップを知りません。そこで、僕が彼女たちに英語を教え、そのスキルを活かして次のキャリアに進めるような仕組みを作りました。この活動は、次第に認知され「キャリア支援」という形で拡大していきました。

 〜 ピンチはチャンス! 〜

女性のキャリア支援も一定の効果が出始めた頃に、コロナウイルスの大流行がはじまります。緊急事態宣言や外出自粛によって、連日のように多くの人で賑わっていた中洲の街は急速に活気を失っていきました。

当然、僕のスナックも休業を余儀なくされ苦しい日々が続きました。また、キャリア支援に参加していた女性たちも中洲で働いていたため収入が激減し、キャリアアップを目指す余裕はありません…。そのため、指導をおこなっていた女性たちもすべていなくなってしまったんです。

さて、どうするか…休業をしいられた店舗と指導先を失ったキャリア支援。ずいぶんと頭を抱えました。そんなときに、ふと数年前に働いてくれていた女性のことを思いだしたんです。彼女は精神疾患を持ちながら、キャストとして接客をおこなってくれていました。しかし、お客様との距離感がはかれなかったり場違いな発言など、対人面でのコミュニケーショントラブルが目立つ子でした。そんな彼女に対して、接客はもちろんですが日常の生活や社会の常識的な部分まで含めて非常に細かく、付きっきりで指導をしました。すると数ヶ月後には、自分本位の発言は激減し相手を気遣う言葉が増えはじめ、問題行動はなくなっていったんです。本人が実感するほど、彼女の障がいは影を潜めていきました。

程度の大小はあれど中洲で働く女性たちは心に傷を負っていることが多く、精神障害や発達障害を持ちながら働いている人も稀ではありません。この指導方法を使えば、社会で生きづらさを感じながら生活している人々を救える…ピンときたんですね。

現在、その彼女は夜の仕事を卒業してSNSマーケティングなどを行う会社の代表として活躍しています。それまでは障害を抱え生きづらさを感じていたでしょう。しかし、今は毎日いきいきと活力のある生活を送っています。

「障がい者を『普通』に働けるように教育する」という目標を掲げているわけではありません。年齢や性別、人種や宗教そして障害の有無などをこえて、すべての人が平等に幸せを享受できる社会の実現をめざしているんです。それはきっと「教育の力」によって解決できるものだと信じています。

 〜 だれもが幸せな社会の実現のために… 〜

現在、僕はアロンジ合同会社という屋号で、スナック経営はもちろんですが様々な教育事業を展開しています。自社オリジナルの「就労教育プログラム」は九州大学の研究室に協力いただきエビデンスの確立を目指しています。数値データとして客観性が担保されれば、もっと多くの方々へこのプログラムを届けることができます。少々スケールは大きいですが、日本のためにも普及させていくことは僕の使命だと感じています。


事業推進統括マネージャー。現在みらいあんにおいての僕の肩書です。みらいあんは終活相続の啓蒙活動をきっかけにスタートした団体ですが、設立10年が経過した現在ではその枠にとどまらず孤独孤立支援、障がい者支援、生活困窮者への支援など、当初よりも支援の幅が大きく広がってきています。

支援のすそのが広がることは、その分多くの方々を救うことにつながるため悪いことではありません。しかしみらいあんを「支援したい!」という方々を募る場合には、幅が広すぎるためメッセージが伝わりづらいという難点も抱えています。

団体の活動をより多くの方々へ正確に届けるためには、このあたりで一旦立ち止まり、もう一度団体についての情報を整理し、伝わりやすい形にして対外的に届ける必要があります。その整理を僕が役割として担っていると認識しています。

また、独立行政法人で国家予算の執行管理をおこなっていた経験を活かして、助成金や補助金の申請支援・寄付制度の構築という部分にも注力しています。多くの方に適切な支援を届けていくためには1日でも長く団体がありつづけることが重要で、そのためには運営資金も必要になってきます。そのサポートを行っていきます。

早速その活動の一つとして「MIRAIサポーター制度」がはじまりました。みらいあんの行っている支援活動に賛同いただける方に対しての寄付制度です。寄付をいただいた方に対しては返礼品として障がい者就労支援施設の商品をお渡ししています。厳選に厳選を重ねて選定した美味しいものばかりです。まずは「支援」という形ではなく、「おいしいものを食べてみたい」という感覚でご寄付いただければと思います。味は間違いありません!ぜひ一度ご賞味ください!