パッション株式会社【岡本安弘】


 〜 傲慢さと再生の旅路 〜

何度も母が変わる…そんな家庭で私は育ちました。両親は離婚や再婚を繰り返し、私の生い立ちは決して恵まれた環境とはいい難いのかもしれません。幼いながらも不安と寂しさを抱えて過ごしていたことを覚えています。幼少期に受けるべき愛情の総量が足りなかったのかもしれません。成長するにしたがって、私は行き場の失った苛立ちを外で発散するようになっていきます。

思春期を迎えるころには、当時の若者文化であった「ツッパリ」に影響を受け、悪いものへの憧れや強さへの執着が増していきました。私にとっての「強さ」とは、他人に対して力を見せつけることだという安直な発想しか、当時は持ちあわせていなかったのです。そのため、先輩後輩に関係なく「力」でマウントをとって、気に入らなければ喧嘩をするような日々を送っていました。そういった、傲慢な考え方は高校を卒業し社会に出ても根底では変わっていなかったように感じます。

高校卒業後に就職した運送会社では、自ら希望すれば昼夜問わず1日何十時間も働くことが可能でした。私も「自分のほしいものをすべて手に入れるんだ!」という野心に支配された発想で、月に何百時間もの残業をこなしてハンドルを握り続ける日々を送っていました。休みもろくにとらずに何ヶ月も働き続けた結果、最悪の事態を引き起こしてしまいます。

フロントガラス越しに広がる惨状は、まるで悪夢のようで現実だとは信じがたい程のものでした。何トンもあるはずの車同士が折り重なって、まるで波を打っているかのように前へ前へと伝播していきます。波に押し出された一部の車は道路脇にある工事現場へと吸い込まれ轟音と粉塵を上げています。その光景が現実だと気づいた瞬間、背筋が凍るほどの恐怖が押し寄せてきました。

居眠り運転による多重事故を引き起こしてしまったのです。居眠りをしたことが事故の直接的な原因ではあるものの、過労を軽視し限界まで働きつづけた私の傲慢さが引き起こした結果だと痛感しました。被害者が軽症ですんだことは幸いではあったものの、被害にあった人々の心痛を思うと弁解の余地もありません。事故後、一軒一軒被害者宅を訪れては頭を下げ謝罪し、補償の目途が立った段階で会社を退職して新たな道を探ることを決意しました。

自らの傲慢さを深く反省し、再出発のために新たな職を探し始めました。しかし、大きな事故を起こした影響で1年間の免許停止処分を受け、思うように仕事を見つけることはできません。そんな中、親戚から「鹿児島にいる知人の船で乗組員が足りない」との話が舞い込んできたんです。働き口を探していた私は迷うことなくこの話に飛びつき、新たな生活がスタートします。

 〜 死の淵で見つけた「強さ」の本質 〜

20歳になった私は、心機一転「マグロ漁師」として再出発を迎えます。やる気に満ち溢れ飛び込んだ漁師の世界は、想像をはるかに超えるほど厳しいものでした。しかし、同時に私自身の生き方そのものを見つめ直す大きな転機となっていきます。

乗船した船は日本の領海を越えて遠洋でマグロ漁を行うため、船に乗ると半年ほどは日本に戻ることはありません。その日から船上での長い生活がはじまりました。マグロ漁は毎日が命の危険と隣り合わせであり、文字通り「命がけ」の日々でした。「延縄」と呼ばれる方法で漁を行い、船尾から針のついた網を少しずつ海に流していきます。作業中に縄や針が足に絡まれば海中へ引きずり込まれ、スクリューに巻き込まれる危険が待っています。運良くスクリューを避けられたとしても、冷え切った極寒の海で生き延びられる時間はわずか10分。さらに、サメに襲われる可能性もあるため作業中は常に緊張感と恐怖に包まれていました。

乗船から2ヶ月ほど経ち仕事にも慣れてきた頃のことでした。その日も早朝から眠気を抱えながら餌出し(縄に餌をかけて船尾から海上へ縄を落としていく)作業に追われていました。すると、足首に何か当たった感覚を感じた次の瞬間、私は甲板に倒れこんでいました。足首には縄がしっかりと絡みついてじわじわと海中に引きずり込まれそうになっていたんです。咄嗟に手すりにしがみつき、大声で助けを求めましたが機械で送り出される縄の力はものすごく…「もう、ここまでか」と諦めかけたときに――「何やってんだ!」と駆けつけた船長が、ナイフで絡んだ縄を切り私を救ってくれたんです。

最悪な事態をまぬがれたのは、甲板で作業していた私の異変にいち早く仲間たちが気づいてくれて、すぐさま大声で船長に知らせてくれたおかげでした。そのおかげで、私は極寒の海に引きずり込まれ命を落とす危機を回避できたんです。これまでの人生において、まさに死が最も近くに迫った瞬間でした。

漁船での経験は、私に「強さ」の本当の意味を教えてくれました。強さとは腕っぷしの強さではありませんし、ましてや肩書などでもありません。私が船上で死の淵に立ったときに、自らの危険をかえりみずに必死で助けてくれた船長のように、誰かを思いやり、心から相手に寄り添うことができることこそが「強さ」なのだと痛感しました。私もそんな人間になりたいと20歳にして強く心に誓いました。


みらいあん梅﨑理事長(いつも通り“梅﨑”と呼ばせてもらいます笑)とは小学校時代からの友人なので、もう50年近い付き合いになりますね。実家も近所で小学生の頃は毎朝梅﨑が迎えに来てくれて一緒に登校し、剣道やソフトボールの習い事にも一緒に通っていました。まさに「竹馬の友」と呼べる存在です。しかし、中学卒業後はそれぞれの道を歩み始めてから顔をあわせることはなく、再会したときには20年近い年月が経過していました。

再会を果たした頃、私は外資系企業での長年の経験をもとに現在のパッション株式会社を立ち上げたばかりでした。一方の梅﨑も前年に不動産業を手がける株式会社レアルを創業しており、偶然にも経営者という立場で再会をする形になりました。その後、しばらくして梅﨑を中心に「NPO法人みらいあん」の設立が進められることになっていきます。(詳しくは会員インタビュー梅﨑守)

住宅リフォームやハウスクリーニング事業を行っていると、現場で孤独死に直面する機会も少なくありません。相続トラブルが原因で家族から孤立し、孤独に生きざるを得ない方も多く、こうした現状を見ていると、相続や終活に関する啓蒙活動の必要性を強く感じていました。そのため、梅﨑から「みらいあんの活動に参加してほしい」と打診を受けた際には、迷わず引き受けましたね。


NPO法人みらいあんでは「居住支援」「孤独孤立支援」「こども食堂」などの様々な活動を行っていますが、今後特に力を入れたいのは「孤独孤立支援」です。孤独死の現場に立ち会うたび、故人の部屋に残された生活の足跡が胸に迫ります。たくさんの笑顔の写真や思いが綴られた手紙、大切に飾られた装飾品や使い込まれた調理器具など、確かにその人が生きていた証がそこにはあります。孤独な最期を迎えることになった経緯は知るすべもありませんが、誰かとつながっていれば避けられたことなのかもしれないといつも感じています。

年間何千件もハウスクリーニングを行っているわけではない私でさえ孤独死の現場に何度も立ち会う機会があるわけですから、日本全体を見渡せば、どれだけの数の方が一人淋しく最期を迎えているか計り知れません。このような淋しい最期を少しでも減らすために、孤独孤立支援に尽力していきたいと思っています。

孤独を解消するためには、社会とつながりを持つことが重要です。孤独を感じている人には仕事や趣味の場など、勇気を出してコミュニティに参加していただきたいと思います。また、パートナーを持つことも大きな助けとなります。高齢者の中には「年齢的に今さら…」と感じる方も多いかもしれませんが、最期まで共に歩める人がいることで孤独の解消には大きな効果が期待できます。そこで、シニア向けの「婚活ツアー」や「婚活パーティー」などを企画していけたらと考えています。パートナーシップは必ずしも結婚や恋愛関係に限りません。「お茶飲み友達」のような関係でも、人生を今より楽しく充実したものにでき、孤独を解消するためのきっかけになるはずです。