エスアンドエフ福岡【小森吉樹】


子どもたちにとって、学校や家庭のごく狭い範囲が世界の全てであって、その中で生きていくことが彼らの日常です。しかし、世の中を俯瞰して見てみると、連日のように報道される家庭内での虐待や学校でのいじめによる自殺。今の社会は子どもたちにとって必ずしも生きやすい環境とは言い難いと感じています。

僕は、大学の体育学部を卒業後に大阪の高校で教鞭をとった経験があります。2年間というわずかな期間ではありましが、学生たちと向き合う日々を送っていました。ただ、大学時代から教員を志していたというわけではないんです。大学時代に打ち込んだ新体操の成績をかわれ、卒業後は男子新体操選手の育成という名目で、体育教師になる道が一般的な時代だったんです。僕はそんなレールに乗った一人だったんですね…。

22歳の若造が「先生」と呼ばれるにはあまりにも未熟でした。

しかし、生徒たちは未熟な僕に対しても純粋な瞳で「先生」と呼び、僕の言葉を一言も聞き漏らさないように必死に耳を傾けてくれるんです。「こんなにも未熟な人間が先生と呼ばれていいのだろうか…」という疑問や違和感を覚えながら、教壇に立ち生徒たちを指導することに、いつしか恐怖心すら感じるようになっていきます。

23歳のときでしょうか。大阪の高校から岐阜の高校に移り、体育教科を担当しながら男子新体操部の顧問をしていた頃でした。新体操部の1年生だった生徒が、無断で放送室に入り友人同士とマイクをオンにしてふざけあっていたんです。その様子は全校放送に乗り、校内に響き渡りました。僕は、いち教師として行き過ぎた生徒の行動に注意を促すために、一目散に放送室に向かいます。しかし、気づけば次の瞬間に僕の右手は生徒の頬を激しくはたき、振り抜いた右腕の肩越しに、彼がうずくまっているのが見えました。

40年近く前の話になりますが、きっと、今の時代であれば即退職という事案でしょう。当時は、まだまだ体罰が指導の延長線上として黙認されている時代でもありました。そのため、生徒の親御さんからも今回の指導について理解を得られ、むしろ、自分の子どもの行き過ぎた行動を謝罪をされました。校長や先輩教師からも退職を勧められることもありませんでした。しかし、生徒の頬をはたいた手のひらの感触は、決して拭い去れるものではありません。いくら、体罰が黙認されていた時代であっても、僕の心には後味の悪さがべったりとこびりついたままだったんです。

そして、僕は教師を辞めました。

それは、子どもたちと向き合うことから逃げたのかもしれません。「先生」と呼ばれるには、あまりにも未熟すぎた。そこから、40年ほどが経過しますが、子どもたちと面と向かって関わるような活動からは、ずいぶんと遠ざかっていたように感じます。それが意図的なのか、無意識的なものなのかはわかりません。

ただ、転機というものはいくつになっても訪れるものですね。


現在は「エスアンドエフ福岡」で墓石清掃事業を中心に活動をしています。自身の母を亡くしたことをきっかけに「終活」の重要性を感じた末、この事業に行き着きました。そのため、「終活」という分野でさらなる知識獲得や終活の現場に触れることが必要と常に感じていました。

そんな中で、福岡市を中心に終活についての啓蒙活動を行っている「NPO法人みらいあん」を知り、会員として活動をともにすることになっていきます。

終活セミナーや生活困窮者への居住支援、高齢者の抱える孤独・孤立を解消する活動など、様々な社会課題に対して、多くの会員の力を借りながら解決へと導いている団体です。事務局として運営に携わる中で、僕の中でくすぶっていた子どもたちへの思いを再燃させる活動と出会います。

「子ども食堂」

終活団体が行う、子ども食堂ということもあり、子どもだけでなく地域の高齢者も含めて食事を提供するというイベントです。趣旨としては、子どもを含む生活困窮者への支援や高齢者の孤立解消、そして地域コミュニティの活性化などを目指しています。月1回の同一場所での開催ということもあって、回を重ねるごとに来場者は増え、周辺地域からも認知される活動になってきたという実感があります。

子どもたちからお年寄りまで、世代を越えた交流も増え、イベントとしての成功をおさめる一方で、本当の意味で「子どもたちの救済」につながっているのかというと、疑問を感じる部分もあります。つまり、まだまだ改善の余地があるということですね。

将来的には、月1回の開催ではなく、常設された「子ども食堂」を実現したいと考えています。それは、子ども食堂という名称ではなく、地域に根ざした飲食店のような形で、大人も子どもも気軽に立ち寄れる、そんな場を作っていきたいと思っています。

これまで大人たちが一生懸命になって作ってきた現在の社会は、果たして子どもたちにとって生きやすい社会になっているでしょうか。きっと、そうではないように感じますね。だからこそ、僕は「子どもたちの傘になれる場」を作りたいと思っています。それは、もしかしたら、今でも手のひらに残る、あの後味の悪さを払拭するための僕なりの贖罪なのかもしれません。