10月25日みらいあん事務所において「スキルアップセミナー」が開催されました。スキルアップセミナーは毎月開催しており、ご自身の事業や経験を語っていただき会員内での新たな知識の獲得を目的としております。
本日は、弁護士である原先生及び、創業76年を迎えた博多一番太鼓の3代目である長尾様をお招きしお話いただきました。
【原綜合法律事務所 代表弁護士:原隆】
1人目の講師は「原綜合法律事務所」代表弁護士である原先生に講演いただきました。弁護士と聞くと皆さんはどんなイメージを持たれるでしょうか。敷居の高さを感じる人も多いかもしれません。また、エリートというイメージもあるでしょう。一方で原先生はというと、先生のまとう空気感は「敷居の高さ」など微塵も感じさせません。その人物像をつくったのは弁護士に至るまでに何度も挫け立ち上がってきた精神力だけでなく、紛争解決の請負人として様々な難題を解決に導いてきた自信が背景にはあるのかもしれません。
本日は「相続問題」という難しい内容を原先生ならではのユーモアを交えながらお話しいただきました。
〜相続現場の現状と課題〜
「兄弟間での相続争い」を例に【①父母の健在期②介護期③死亡直後④死亡1ヶ月後〜⑤死亡2,3ヶ月後〜】という5つのフェーズで兄弟間でどのようなことが発生し、相続問題に発展するのかを具体的に見ていきましょう。
【①父母の健在期】兄弟間で父母が亡くなった後の相続について口に出してお互いが言うことはなく、まだ相続問題に発展することはありません。兄弟は各々で、なんとなく「自分はこれくらいもらえるかな〜」というイメージを持っている程度です。
【②介護期】この時期に「相続問題の種」が植えられるケースが多くあります。父母の介護は兄弟のうちどちらかの負担が大きくなります。また、介護期に自分に有利な遺言書を父母に書かせるなどの事案も多くあります。
【③死亡直後】父母の死亡直後は、兄弟間で悲しみを共有することになります。このタイミングで相続の話をするケースはほとんどありません。
【④死亡1ヶ月後〜】この時期から、自分の相続について意識するようになります。具体的にどの程度もらえるのかを計算しだしたり、兄弟間で遺産の話をするようになってきます。その結果、両親の預金口座にほとんど預金が残っていなかったり、遺言書があると言い出したりするようになります。また、お互いの配偶者から「自分の相続分は主張しなさい」と言い出されることも相続問題が激化するきっかけになります。
【⑤死亡2,3ヶ月後〜】預金残高が僅かであることを受けて、生前の銀行取引履歴を調査すると介護期に使途不明の出費があることを確認したり、遺言書に自分の相続分が記載されていなかったりと問題が表面化します。兄弟間で話し合いをしたくても、一方が完全拒絶するなど第三者の介入がなければ解決できない状況に至ります。相続問題が表面化して、関係者間で解決が難しい状況になって弁護士の登場になります。相続人の範囲を調査したり、完全拒絶をしている兄弟への代理人として交渉をおこなったり、場合によっては裁判手続きを進めることで解決に導いていきます。
相続問題で特に揉める事案として「相続人が多数存在する」というケースがあります。両親の相続時に兄弟間で紛争となり、その争いを長年放置したまま兄弟のどちらかが亡くなる。そうなると本来であれば兄弟だけだった相続人が、さらに増えることになります。結果として相続問題の激化を生み、解決がより難しくなっていくのです。相続問題は放置しても一つも良いことはありません。自分の子や孫の世代に負の遺産を引き継ぐことのないように、今解決することが重要なのです。
【博多一番太鼓 三代目:長尾重明】
幼少期に市民プールや団地の前で、モナカに入った冷たいわらび餅を食べた経験はありませんか?2人目の講師はわらび餅を販売する「博多一番太鼓」三代目当主である長尾重明氏に講演いただきました。流し屋台とチリンチリンという鈴の音が幼い頃の夏の記憶を呼び起こしてくれるのではないでしょうか。
〜声なき声の傾聴者〜
戦後間もない1947年11月に博多一番太鼓は創業しました。創業に至った経緯は、儲かりたいという商売を念頭に置いたものではありませんでした。
創業者である初代は太平洋戦争中に満州で終戦を迎え、敗戦後押し寄せるソ連兵や中国の民兵に追われるなか、命からがら小さな貨物船に乗り下関まで戻ってきたそうです。そこから1ヶ月以上の時間をかけてふるさとである福岡へ戻り、目の当たりにしたのは、慣れ親しんだ博多の町並みでは無く、戦火によって面影を失ってしまった故郷の姿でした。しかし、変わり果ててしまった故郷の姿以上に心を痛めたのは、ボロボロの服をまとい片方だけの靴を履き身を寄せ合うように路上で生活する戦争孤児たちの姿だったのです。
日本の将来を担うはずの子供たちの悲惨な姿を見て、初代は「この状態から日本が立ちなおるんは無理じゃなかろうか。このままじゃ、日本は終わるんじゃなかろうか」と危惧したといいます。そこから「子供たちに対して、なんかしてやれんやろうか」という思いが募り「博多一番太鼓」の創業に繋がっていきました。
戦争孤児たちに何かをしてあげたい。腹いっぱいは食わしてあげれんけど、真っ当な大人に育つように手助けをしてあげたいという思いからスタートしたんです。その精神は、令和の時代となった現在でも引き継がれています。昭和30年代から現在までわらび餅の価格を変えていないことも、子供たちがお小遣いで買えるようにという思いからなんですね。
わたしたちは、わらび餅を売りながら子供たちの姿をよく観察するようにしています。わらび餅の屋台は、子供たちを集めるための道具にすぎません。その本質は「悲しみを抱える子供たちを救うこと」なんです。
集まってくる子供たちの中で、助けを求める声なき声を上げる子たちがいないかをいつも気にかけています。ときには、屋台に付かず離れずの距離を取って悲しそうな瞳で見ている子供と遭遇することもあります。そのときは「おいちゃん昼ごはん食べきらんけん、食べてくれたら嬉しいな」と声をかけ、よぶんに買ったお弁当やわらび餅を渡して食べながら話を聞くんですよ。小さな手でわらび餅を握りしめたまま、今にも溢れ落ちそうなほどの涙を瞳に浮かべ、耳を塞ぎたくなる現実を語る子供たちが今もこの街にいるんです。
児童虐待やDV、性暴力などみなさんもニュースや新聞で見聞きしたことはあるでしょう。みなさんが住んでいる福博の町においても例外ではありません。どうか、自分の周りだけでいいです。地域の子供たちに目を向けてあげてください。きっと、助けを求める声なき声を拾いあげることができるはずです。